安定が正解とされる社会構造の中で、違和感を覚え始めた話
評価より、納得を選ぶための思考記録
ある日から、私はこう感じるようになった。
「正解を選び続けてきたはずなのに、
その“正解”に、ほとんど心が動かなくなった」
これは、誰かに生き方を勧める記事ではありません。
ただ、自分の価値観が静かに崩れていった過程を、
未来の自分のために残します。
1. 「安定」が高評価になる理由
世間が安定を重視するのは、臆病だからでも、挑戦が嫌いだからでもありません。
多数派にとって、「生活を壊さないこと」は最優先だからです。
- 失敗のコストが高い(信用・キャリア・家族への影響)
- 一度外れると戻りにくい
- 再挑戦の制度・文化が強くない
つまり、安定が称賛されるのは「正しい/間違い」ではなく、
統計的に“損をしにくい”選択として機能しているからです。
2. それでも私が「挑戦」を選びたい理由
私が欲しいのは、肩書きでも、世間の称賛でもありません。
欲しいのは、自分の時間の主導権と、自分で設計できる人生です。
挑戦=無謀ではない(私の定義)
私にとって挑戦とは、勢いで突っ込むことではありません。
不確実性を理解したうえで、責任を引き受けることです。
- 学ぶ(情報・技術・習慣)
- 試す(小さく実験する)
- 検証する(数字で振り返る)
- 修正する(やり方を変える)
「世間の評価」が重く感じるときの考え方
世間の評価が厄介なのは、正解に見えるからです。
でも評価は、人生の目的ではなく副産物です。
評価を先に置いた瞬間、選択は「自分のため」ではなく、
“他人が安心する人生”に寄っていきます。
「勿体ない」が残るのは悪いことじゃない
頭では分かっていても、「勿体ない」は残ります。
でもそれは未練ではなく、過去の自分が本気だった証拠です。
消すべき感情ではなく、「ありがとう」と言って前に進むための感情。
3. 私が自分に課す“戒め”
これから私は、自分の人生を自分で選ぶ。
そのために、次のルールを持つ。
- 評価を判断基準の最上位に置かない
- 時間を差し出す前に、目的を言語化する
- 小さく試し、数字で検証して積み上げる
- 家族を守る設計の上で、攻める
「これは、本当に自分が選びたい人生か?」
迷ったら、何度でもここに戻る。
正解の顔をした他人の安心より、
自分の納得を選ぶ。
※この文章は、誰かの選択を否定するためではありません。
私自身の価値観の変化を記録したものです。